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ラッチェンスの建築ーその1 -カラムNo.88(8304)掲載論文を その1〜その8 に分割- 成功した建築家 もう6年以上も前のことになるが、カラム誌62号に「英国の三人の建築家像-ホークス ムーア、ソーン、マッキントッシュの求めた空間」と題した小文を書いた。そのとき私は、 この三人を歴史の流れに乗らない最も個性的な建築家として選んだわけだが、英国には、 この三人のほかにも歴史上さまざまな特筆すべき建築家達がいる。 例えばホークスムーアの協力でブレニム宮やキャッスル・ハワード を設計したイングリッシュ・バロックのジョン・ヴァンブラ卿(1664-1726)、ヴィクトリア朝の 異才ウィリアム・バターフィールド(1814-1900)や、ウィリアム・バージェス(1827-1881)のような興味をそそる特異な建築家達がいる。 中でもマッキントッシュと同時代人で、しかもいろいろな面で対照的な建築家である、エドゥイン・ラッチェンス卿(1869-1944)の ことは常に気になっていた。 しかし、紹介書も少なく何となく実像がつかめないままに、曖昧な興味を抱きながら数年が過ぎてしまった。 ところが1979年に、雑誌「AD」を出しているロンドンのアカデミー・エディションより、アーキテクチュラル・モノグラフの第6 集として「エドウィン・ラッチェンス」が出版され、主に住宅作品についての大々的な再紹介がなされた。 英国におけるラッチェンスへの関心は次第に大きくなっているようでこのほかにもラッチェンス紹介書が次々に出版されている。 私がラッチェンスの名前を初めて見たのは、おそらく10年以上前に出されたロバート・ヴェンチューリの「建築の複合と対立」の中で ある。ヴァンブラやホークスムーア、そしてソーンの名前も同様にこの本の中で初めて目にした。 この本"Complexity and Contradiction in Architecture"の翻訳は長らく絶版になっていたが、 つい最近、伊藤公文氏の訳によって、題名も、原題の頭韻、脚韻を尊重し「建築の多様性(コンプレキシティ)と対立性(コントラディクション)」と 改められ、発刊された。 この伊藤氏の名訳とモノグラフのラッチェンスの平面図(庭との関係を考慮して、配置を含めた平面図として描き直されていて、明瞭にラッチェンスの意 図を見ることができる)を見て徐々にヴェンチューリの示唆したラッチェンスの読み方が見える気がした。 モノグラフに納められたピーター・インスキップによる「ラッチェンスの住宅」と題した論文は、非常に示唆に富むもので、 ちょっと見たところでは古臭くて、英国の何処にでもあるヴァナキュラーな邸館と変わらない、ラッチェンスの邸館の中に如何に豊富な、 機知にあふれた空間の構成や、プランニングの遊び、ディテールのアイディアが含まれているかを示す。 このインスキップの論文に触発されつつ、ここでは彼の仕事の一部であるいくつかのラッチェンスのカントリー・ハウスを見て行こうと思う。 エドウィン・ラッチェンス卿は、1869年生まれで、フランク・ロイド・ライトと同い年、マッキンットッシュよりは一つ下で、 彼らの同時代人と言える。 |
ライトとマッキントッシュの建築は、表面は何らかの形で建築の歴史に関わり、モダニズムからは外されながらも、 発展史の軸の上に乗っているのだが、ラッチェンスの建築はそういう軸には乗らない。 もちろん、マッキントッシュにしても、ライトにしても、建築史の類型に規定できないとこ ろが面白くもあり、どんな建築家も優れた人であれば、彼は彼自身であり、 歴史の流れの中の類型とし捕らえるのは間違っているのだが、特にラッチェンスの場合は、歴史の流れ の方向とは無縁に、自分の建築をつくり続けていた。 ラッチェンスのクライアントは、銀行家、 政治家、実業家、製造業者、株式仲買人、そして貴族といった裕福な人々、それも特にいわゆる自分一代の力で成り上がった人々が多い。 この点で、クライアントに恵まれなかったマッキントッシュと対照的で、ラッチェンスはいわゆる成功した建築家であった。 マッキントッシュの主要な建築活動がほぼ終わる1910年代の始め頃、 彼は、インドの総督邸の設計を委嘱される。これは夫人の父親がかつてインドの総督であったところから来ている。 これ以後、彼の事務所の仕事は住宅から、ミッドランド銀行のような大きな仕事に移り、事務所も拡大していった。 マッキントッシュが建築をつくり続けるのが不可能になった頃、 ラッチェンスは新たなステップを踏み出しているのである。 ラッチェンスの全建築作品数はプロジェクトも含め300を越えるといわれる。 建築家としての行き方として、彼はリチャード・ノーマン・ショウ(1831-1912)を範と していた。 フィリップ・ウェッブ(1831-1915)等のイングリッシュ・フリー・スクールと呼 ばれる建築家達のように、小さな事務所を持って主に住宅作品をつくっている人々と対照 的に、ショウは大事務所を持って、住宅以外の大きな仕事も含めて大量の仕事をこなしていた。 スタイルの上でも、ラッチェンスはショウから影響を受けている。 ショウがクイーン・アン様式、レンのスタイルのリヴァイヴァル、そしてバロックへと様々なスタイルを 試行するのをなぞるように、ヴォイジー風からレン風、そしてバロックへとスタイルからスタイルへと移行する。 従ってラッチェンスの建築は外観からだけでは、誰の作品だか、或いはヴァナキュラーな建築なのか、殆んど わからない。 作家的事務所と違って厖大な仕事をこなしてゆく大事務所としての行き方としては必然的に出てきた行き方なのかも知れない。 しかし、一見すると何の変哲もなく見えるカントリー・ハウスが、じっくり見れば見るほど非常に豊かな建築的遊びを含んだ、 奥行きの深い建築であることを発見できる。 図面と写真を見ながら一つ一つのカントリー・ハウスを次に見てゆきたいと思う。 |
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ラッチェンスの建築ーその2 グレイ・ウォールズ GREYWALLS 1900 ラッチェンスのカントリー・ハウスの中でも最もよく知られたものの一つで、対角線の アプローチを湾曲したファサードで受けるという、新鮮な配置プランをしている。 ラッチェンスの北入りの場合の邸館のプランの基本パターンは、ヒースコートやリトルテイクハムのように、 中心の北側に玄関、南側にホール、その左右の翼部に南側ではダイニング・ルームとドローイング・ルーム、 北側ではキッチンとライブラリーを配したH型のパターンである。 しかしグレイ・ウォールズは敷地の状況から後で見るパピヨン・ホールと共に南入り(実際は南西アプローチ)にせざるを得ず、 さらに敷地の一部がゴルフ場のクラブ・ハウスの敷地にとられて入口で狭くなっているという悪条件が重なっている。 従ってパピヨン・ホールのように西側から回り込んで入るアプローチがとれない。 そこでラッチェンスは囲い込まれた南東のプライベートな庭とは別に、 広大なエントランス・コートをとって、ダイアゴナルな軸(これは方位の南北軸に一致する)をアプローチの軸とした。 このアプローチの軸の先に、湾曲したファサードが向かえていて、そして この湾曲した立面の両端には、ヴェンチューリの言う“まさしく彫刻的な入口のしるし”である、煙突が立っている。 湾曲部分には、サーキュレーションをキッチン、使用人室などのサービス部門が入っていて、 主要室はあくまで北東側のH型部分に入っている。 | このH型部分から、初めて南東側の庭園に出られるようになっている。 エントランスのファザードの湾曲した立面は、ここではあくまでも外部の条件から決定されたも ので、内部の平面は、この円弧のために歪められている。 この歪められたプランの”つじつま合わせ”は素晴らしく、特にファサード側に窓のとれない キッチンは、採光の問題を南西側にトップライトとライトコートを配して解決しており、 円弧とH型平面の曖昧な、融合の仕方には、安易に単純化せず、与えられた問題を無理に 解決せず、そのままの形で提示した趣があり、プランを豊かなものにしている。 この辺のところは、ペルッツィによるローマのパラッツォ・マッシーミや、ジョン・ソーン卿による イングランド銀行の平面を想起させる。 こうしたH型のプランに湾曲したエントランス翼がついたきっかけは、 この変形の敷地に悩んでいたラッチェンスが、リチャード・ノーマン・ショウの有名なバタフライ・プランの邸館「チェスターズ」を 訪れたことだといわれている。 このショウのチェスターズの側面の湾曲した立面が直接のきっかけになった、といわれる。 この後、ラッチェンス自身もこのチェスターズの影響のうちに「バタフライ・プラン」の邸館をつくった。 それが後で触れる、その名も「パピヨン・ホール」である。 |
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ラッチェンスの建築ーその3 ホームウッド Homewood 1901 これは義母であるレディ・リットンのための住宅である。 ラッチェンスの邸館の中では、わりと小さい方であり、平面を見ると正方形 が、縦三つ横三つに分割されて、大雑把に言って九つの区画から成っている。 エントランス・コートから見て、三等分したした左側のブロックが、使用人及びキッチンなど サービス用のブロックで、右側にスタディ、ホール、ドローイング・ルームという主室が並んでいる。 真中の列には、エントランスと階段及びダイニングがある。非常に明確にパブリック-プライベートの段階的ヒエラルキーのある 平面構成をとっている。 アプローチの車道は、ダイアゴナルに伸び、途中からエントランスに真っ直ぐぶつかる道路に分れる。 この軸がエントランスの開口を通る軸と一致するのだが、この開口は平面上は中心から少し外れている。 ここで平面上の中心軸と、立面で見る中心軸がずれている。 ファサードの、向かって左側のキッチンに食品庫と洗い場を突出させて、 エレヴェーションの上では、完全なシンメトリーを構成して、外部と内部の「つじつま合わせ」が巧妙に行われている。 外観上の特性としては、このころのアーツ・アンド・クラフツ的な、ヴァナキュラーな 表情をした屋根(上半分)と、クラシカルなディテールをもった、白いスタッコ部分(下半分)が、 不思議な融合をして魅力的な立面をつくっている。ニレ材に黒いステインを塗られた下見板張りの、 三つの破風の連なりとそれぞれに穿たれた三つの田の字型の窓、左右両端に見える小さな屋根、 そしてエントランスの白く塗られた木製のアーチ、そしてその下の宙に浮いた象徴的なマグサという風に、 一見ヴァナキュラーなようでありながら、幾何学的な形態、マニエリスティックな、立面操作 が行われている。 このエントランスのある南西立面の破風の連なりによるモチーフは、 | 南西側のエレベーションにも表れているが、ここでは、1階の白い部分と、2階の屋根部分とが完全に剥離 しており、内部の部屋からの要請が、立面にそのまま表現されている。 南東側のエレベーションでは、破風の表現はなく、屋根が両端で1階の軒高まで下りてきており、 真中に向かって両側のテラスの上に迫り下ってきている。 中心部分では1階の白いスタッコの壁が、2階にまで伸びていて、2階分の高さの付柱(ピラスター)が4本、2階の軒まで伸びている。 ついでながらこの白壁は煉瓦に白いスタッコ塗りで、付柱は木製にペンキを塗ったものである。 このように外観上、四つの立面はそれぞれ違った表情を呈しており、それぞれの立面に おいて、それぞれ独立した形態操作が行われ、それが平面の構成にフィード・バックされている。 すなわち、それぞれの立面のシンメトリーの中心軸は、平面上ではすべてずれているのである。 各方面の独立したシンメトリー構成に加えて、このホームウッドの邸館には、もう一つ のラッチェンスの邸館の特色が出ている。 それはサーキュレーションの複雑さである。エントランスの開口部には、すぐにドアはなくて、 引っ込んだ一番奥右に入口ドアがある。 そのドアを開けた玄関部からもう一度ドアをあけるとホールに出て、振り返る形でホールの中心に2階へ行くストレートの階段がある。 この階段上部には、トップ・サイド・ライトがあって光を落している。 この光は、階段と玄関部分の間仕切りにあけられた二つの八角形の窓を通して、玄関にも達する。 エントランスからホールに至る、こうした持って回ったサーキュレーションは、ラッチェンスの平面の特性である。 全体的にはコンパクトで単純な平面でありながら、このようにホームウッドは非常に豊かな空間構成になっている。 |
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ラッチェンスの建築ーその4 ディーナリー・ガーデンDeanary Garden 1901 ラッチェンスの建築家としての生涯を考えるとき、ガートルード・ジキルという女性造園家と カントリー・ライフの社長であるエドワード・ハドソンという二人の人物の存在を 除いて考えることは出来ない。 1891年、独立して間もない頃にラッチェンスはガートルード・ジキルに会っている。 彼女はラッチェンスより20数歳年上の未婚の独立した女性で、早くから造園家として大きな 事務所を持っていた。 その後彼女は協力者としてラッチェンスに多大な影響を与えた。また、仕事の面でも彼女を通じてラッチェンス は多くの仕事を得ている。 エドワード・ハドソンが、「カントリー・ライフ・イラストレイテッド」という雑誌を 創刊したのは1897年のことである。 最初は狩猟の雑誌だったが、すぐにカントリー・ジェントルマンのための生活のあらゆる面を含ん だ雑誌となった。 もちろんその中には住宅と庭園も含まれる。1900年には「ザ・ガーデン」という雑誌と合併し、 その雑誌のために書いていたガートルード・ジキルはハドソンに請われてカントリー・ライフに移った。 やがて彼女はハドソンにラッチェンスを推奨し、彼の設計したムンステッド・ウッドの住宅 (ジキルのための住宅)が「カントリー・ライフ」誌に掲載されることになる。 このディーナリー・ガーデンは、エドワード・ハドソンが、ムンステッド・ウッドを見て、 彼に頼んだ最初の仕事である。この後ハドソンは常にラッチェンスのパトロンであり続け、 ラッチェンスの作品は次々とカントリー・ライフ誌に掲載される。 後で述べるパピヨン・ホールやマーシュコートは、カントリー・ライフ誌上でラッチェンスの作品を見 た人が依頼して来たものだし、キャッスル・ドローゴの施主はハドソンに建築家を世話して くれるように相談に来たことから、ラッチェンスと結びついた。 このようにガートルード・ジキル、そしてエドワード・ハドソンは ラッチェンスの建築家としての生涯に非常に重要な役割を果たしたのである。 ハドソン自身もディーナリー・ガーデンの後も、リンデスファーン城の改装(1903)、 クイーン・アンズ・ゲート15番地(1906)や、プランプトンプレイス(1927)の改装、 そしてカントリー・ライフの社屋というように次々とラッチェンスに仕事を依頼している。 | 余談だが、ホーリー・アイランドというスコットランド国境に程近いイングランド北部の島にある、 ハドソンのリンデスファーン城は、この改装の丁度前後に何度か、マッキントッシュが訪れており、 マッキントッシュのスケッチ集にも、その城の姿が印されている。 同時代に生きながら、全く違う道を歩いていた二人の、ほんの一瞬の接点が、このホーリー・アイランドにあったのは興味深い。 さて、このディーナリー・ガーデンであるが、ハドソンが敷地を手に入れたとき、 この敷地は果樹園だったところで周辺には高い煉瓦の塀が取り巻いていた。 ラッチェンスは北側の煉瓦の塀をそのまま利用して、コートを囲んだU字型の平面をこの塀にピタリと押しやったのである。 ラッチェンスの他の多くの邸館同様、ここには、何本もの軸線が縦横に走っている。 最も強い軸線はエントランスから庭へと抜ける、交差ヴォールトの天井をもった軸である。 この軸に直角方向の軸が3本ある。それはコートの彫像からパーゴラに向かっての軸、ダイニング・ホール、 シッティング・ルームの軸、そして、橋の下の円形の池から細い水路を通って西に伸びてもう一つ の円形の池に達するもう1本の軸である(その池の周辺には階段があって両側から六角形の パーゴラに至る)。他にも何本かの縦横両方向の軸線が平面から読みとれる。 これらがお互いに作用しつつ平面構成をつくりあげている。 中でも中庭の彫像から南北に伸びる軸線上にはホールの暖炉と2階分に吹き抜けた出窓があって、 1階分の高さのダイニングとシッティングを結びつける核の空間になっている。 この出窓(オーリエル)は南立面の中心にありながら、立面の表情はシンメトリーを避け、 平面構成に対応して、アーチのトンネル、その脇の煙突など右に重心が寄っていて、 無理のない構成になっている。 このディーナリー・ガーデンは、のちのラッチェンスの平面に見える、微妙な軸線ズレやウィットに富ん だ遊びが、あまり見られないが、平面、立面共にプロポーションの良い、非常に静謐な美 しい邸館になっている。 |
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ラッチェンスの建築ーその5 リトル・テイクハムLittle Thakeham 1902 この邸館の平面は、先に述べた基本パターンのH型をしていて北入りであり、このH型の 主要ブロックの北東の隅にサービス・ブロッ クが取りついた形をしている。 塀で囲まれたエントランス・コートから入口ポーチを入ると廊下になっていて、中心軸から右にずれた ところにホールへの入口がある。 ここを入ると、実際にホールとスクリーンで隔てられた階段室に出る。 ホールは2階分の高さの天井高をもち、階段の踊り場部分からホールが望めるようになっていて ここから2階の廊下につながる。もう半階上ったところに、主寝室のドアがある。 ホールには平面の中心軸上に、ディーナリー・ガーデンのような2階分の出 窓(オーリエル)がある(出窓の平面形は異なる)。 ポーチを入ると正面は壁になっており、実際の動線は中心軸をずれ、またホール内で は平面上、階段部分を除いたヴォリウムの中心に暖炉が置かれ、平面の上での軸線を、 各部分の空間、動線がずれながらプランが構成される。 部分でのシンメトリーと、家全体のシンメトリーが、各部分で対立して、相互に 緊張関係が生まれ、平面構成がピリっとしたものになっている。 | 外観はチューダー様式で、内部と外部の雰囲気はガラッと変ったものになっている。 特にホールでは、中の空間構成と殆んど関係なく三角形の破風が立ち上がっていて、外観か らは内部にこういう大きな空間があることを想像しにくい。 このホールの中の階段部分は、”家の中の家”的な感覚を抱かせ、また舞台装置の書割 のような雰囲気がある。特にこのホールと階段との間を仕切るスクリーンには、ヴァンブ ラやホークスムーアのバロック的な表情が与えられており印象的である。 舞台装置的な効果は、暖炉の丁度真上に突き出している、2階の廊下からのお立ち台のようなバルコニーにも ある(これと同じモチーフは、先のスクリーンの上にもある)。 またこのスクリーンのホールから見て左側の開口の中心線がダイニング とドローイング・ルームをつなぐ軸線上にあり、この延長上にそれぞれの部屋のアルコー ブ状の暖炉の中心がくる。 ラッチェンスの邸館の内部空間の中で、このホール空間は、文字通りもっとも劇的な空 間の一つだと思う。 |
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ラッチェンスの建築ーその6 パピヨン・ホールPapilon Hall 1903 この建物の核は、1620年代に建てられた、平べったい八角形をした奇妙な住宅である。 建主はチャールズ一世の宝石商人であった、ディヴィッド・パピヨンという人で、 この頃には幽霊屋敷のようになっていた。 ラッチェンスが全く新しい ブロックを付け足す形の増築ではなく、四つの翼を蝶の形に張り出すバタフライ・プランを 実施したのは、このパピヨンという名前からの連想が一つのきっかけになっていることは、疑いのないところである。 そしてもう一つのきっかけは、彼はこの計画の前に、先に触れたノーマン・ショウ設計の チェスターズを訪れていることである。また保存の主要ブロックが四つの辺から翼を伸ばし 易い八角形というおあつら向きの平面をしていたことも、彼をバタフライ・プランに向かわ せた大きな理由であろう。 バタフライ・プランはこの頃、ある程度の流行をみていて、ショウの他にもE.S.プライアー、 M.H.ベイリースコット等が試みている。 ただしベイリースコットのは計画案に留まり実現しなかった。 この辺の事情は、鈴木博之著「ジェントルマンの文化」所収の「蝶の館」の項に詳しい。 この邸館は敷地条件から南入りである。先に見た通りラッチェンスの邸館の基本型は H型プランで北入りが普通である。 その次に西入りのヴァリエーションがあり、主要作品の中で南入りの邸館は グレイ・ウォールズとこのパピヨン・ホール位である。 この南入りであるというプライヴァシーを護りにくい困難な敷地条件から、 西側にアプローチに沿って長く伸びた厩舎をつくったり、また円形のコートをつくるなど、 さまざまな操作をして人を引っぱっている。 | そしてさらにエントランス・コートから、ホール至るまでの経路に は、多様な空間体験が味わえるような工夫がなされていて、ラッチェンスのウィットの真 骨頂が見られる。 まずエントランス部分には、他の部分には見られないヴァンブラを思わせる、 ラスティケイションの施された4本の柱で支持されたペディメントが、取ってつけたようにチュー ダー様式の邸館の1階に張り出している。 このバロック的力強さは、フランスのルドゥーも想い起させる。 こうした様式上の不統一は今まで見て来た邸館でもすでにおなじみだが、 ラッチェンスの意図的な操作である。 このペディメントの下をくぐると玄関なのだが、正面は行き止まりで、すぐに左に曲がると ベイスン・コートと呼ばれる円形の中庭に出る。 ここは周囲がトスカナ式の列柱をめぐらせたアーケードになっていて、反対側にやっと エントランス・ドアを見つけることが出来る。 ドアを開けてアウター・ホールと呼ばれるエントランス・ホールに入っても、真直ぐ正面 がメインのホールというわけにはいかない。 斜め左前方の開口からやっとギリシャ十時形のメイン・ホールに達することができる。 東側の立面の構成は、グレイ・ウォールズの湾曲したエントランスファサードと良く似 て両翼に煙突が立ち程良い角度で両端が迫り出している。 この立面の中心にある破風屋根は、増築前の既存部分が保持されている。 ただし、ハーフ・ティンバーにしたのはラッチェンスのデザインだといわれる。 様式の混合、時間の要素、サーキュレーションの意図された複雑さ等、ラッチェンスの プランニングの特性の多くが、このパピヨン・ホールにもあらわれている。 バタフライ・プランの中では最高に洗練された、このパピヨン・ホールだが、 残念ながら1948年に解体され、現存していない。 |
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ラッチェンスの建築ーその7 ヒースコートHeathcote 1906 それまで部分的に使われていた、古典的な様式のヴォキャブラリーを立面全体に及ぼし たのがこのヒースコートである。 ヴァナキュラーな様式をやめて、ヴァンブラやホークスムーアを思わせる、 バロック的な発想で全体を覆いつくしている。内部にも、クラシカル な言語がゆきわたっている。このクラシカルな様式に関わらず、平面構成は典型的なH型 で北入りのプランである。 例によって、左右対称の軸線と、動線のズレにラッチェンスらしさが出ている。 配置も建物全体の形も、かなり徹底的な左右対称である。エントランス ・ドアとホール、そして庭園の軸は、完全に軸線上にのっている。それだけに余計、エン トランスからホールに至る動線の、遠回りなところが目立つ。 エントランスを入ると正面はホールの暖炉の裏側にあたり壁であり、 右端にロビーへの入口がある。 | この玄関の間自体は、これとは別に暖炉を中心に左右対称に なっている。 右に階段室を垣間見ながらホールに入ると、そこは、ホールの中心からは 4本の柱とアーチで分断された空間に出る。そのまま前へ真直ぐ行けば庭に出るドアがある。 ホールの両端にダイニングとシッティング・ルームがあって、中心軸と直交する軸線で結 ばれていて、端部にそれぞれの部屋の暖炉があるところは、リトル・テイクハムとよく似ている。 その他外観上注目すべきラッチェンスのウィットは、ラスティケイトされた一対の煙突 の上部がマグサ状につながっているところである。ドア開口が、空中に浮かんであたかも 存在するように見える。その他リトル・テイクハムのホール内部にあったバルコニー部分 のアイアン・ワークの手摺りと同じようなものが、外部テラスに見られ、全体のマッスの 力強さに拮抗して、表情を和らげていることである。 |
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ラッチェンスの建築ーその8 ラッチェンスの設計手法 これまで見て来たように、ラッチェンスの設計手法には、いくつかの意識的と思える 知的操作が見てとれる。気がついた所を次にあげてみようと思う。 @)軸線による全体構成 全体の平面配置はシンメトリーを基本とする。その対称軸以外に、いくつかのサブの軸 線が導入され、庭園まで含めて、このXY両方向の軸線(例外的にグレイ・ウォールズのよ うなダイアゴナルな軸線も現れる)に沿った平面の構成がなされる。 例えば、ディーナリー・ガーデンの平面には、エントランスから庭園の橋を経て果樹園に至る軸と、 コートヤードと建物の中心軸、そしてパーゴラの軸線と いう3本の南北軸と、それに直行するやはり3本の東西軸が明確に見てとれる。 A)部分と全体の齟齬 各面のエレヴェーション、各部屋の内部における人の視点から平面は再検討され、部分 における空間の構成原理は全体の構成原理とは別途に考察され、全体構成との間に起る咀 嚼は、そのまま表現される。 例えばヒースコートにおける玄関の間、ホールそれぞれの部屋の中での対称軸と全体の対称軸とのズレ、 リトル・テイクハムのホールの対称軸と全体の対称軸のズレ。 B)内部と外部の齟齬 内部の機能的要求、或いは構成原理から来る条件と、外部の状況的要請、或いは構成原 理から来る条件とは、それぞれ別々に考慮され、表現され、内部と外部の表現の乖離やズ レは、そのまま表現される。 例えばグレイ・ウォールズにおける湾曲した立面のファサードと内部の設備部門の平面とのズレ、 リトル・テイクハムのホール部分の内部空間と外観との表現の乖離。 C)人の動線と軸線とのズレ ヴェンチューリは「建築の多様性と対立性」の中で、“ギャラリーの入口は、強い方向性 をもった空間でありながら、にも関わらず、突き当りの壁は盲となっている”と、ラッチ ェンスのミドルトン・パークを対立性(コントラディクション)の例としてあげている。 シンメトリーの対称軸にエントランスをとり、人を導いておきながら、途中に盲壁(多くの 場合、反対側はホールの暖炉になっている)をもってきて、動線を迂回させる平面構成を ラッチェンスは、多くの邸館で採用している。 | ヒースコートも、その代表的な例で、人は軸線と離れてダイアゴナルな動きを強制される。 先に見た論文の中でインスキップは、この理由として、建物を大きく見せるためだとしている。 その証拠にこの操作が行われるのは、比較的小さい邸館で、大きな邸館では対称軸 と動線のズレのないプランがいくつか見られるという。それも理由の一つかも知れないが、 むしろシンメトリーの全体構成を、空間を体験する、人の視点の側から部分を再検討し、 空間を緊張感のある豊かなものにする意図或いはラッチェンスのウィット、知的遊びの 表現かも知れない。 D)建物と庭園の融合 @)の軸線による全体構成で見る通り、軸線は建物内部だけでなく、当然ながら庭園の 構成にも適用され、建物と庭園とは一体に表現される。 インスキップの指摘によれば、初 期の邸館では、ホールが空間構成のヒエラルキーの核であるが、後期の邸館、グレイト・ メイサムやグレドストーンでは、庭園がむしろ核となって、建物が庭園の前室的な役割を 果している。 E)時間の表現 パピヨン・ホールのような増築の場合に、ラッチェンスは、その建物の由来や既存の形 態を尊重し、大事にしている。あるいは、ここでは触れなかったティグバーン・コートに 見られるのだが、新築でありながら、わざと違った様式の部分をくっつけて、 あたかもその部分だけ後で付けたされたような表現をしたりする。 家具についてもアンティークの家 具を漂白して使ったりして、全体に新品を嫌い、時間の経過を好んだ。 いつの時代の建物だか分りにくい、さまざまな時代の様式を混合して使用し、あたかも改装したり、増築 したりして何代も時間を経過した建物であるかのような表現をする。 こうした時間の表現は、一つには施主の多くがいわゆる成り上がり者であったことが原因かも知れないが、 より以上にラッチェンス自身のロマンティックなものを好む性向に由来している。 彼はこんなことも言っている。「私はむさくるしい家や、みすぼらしい庭は嫌いだ。私 は努力の跡を見せずに、優美さや明解さを表現したい」。 |
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マッキントッシュー時代精神の手法化ーその1 -美術手帖7905掲載論文を その1〜その6 に分割- 形態の用法 建築はどんな場合でも形態の問題ではなく形態の関係の問題なのであり、 建築を刷新する者のみが建築家たり得るのだ。彼は形態の用法の決定者である −これこそ彼が失うことのできぬ役割である。(J.サマーソン) 今、ふたたびC.R.マッキントッシュの独特な形態のみに注目するとしたら、 当時の英国人たちの犯した過ち、つまり優れた建築家としての評価を、その形態の特殊性からのみ判断し、 否定してしまったその同じ過ちを犯してしまうことになる。 たとえばヴェンチューリは、その著「建築の多様性と対立性」の中で、 英国の歴史上の建築家の中から、ジョン・ヴァンブラ卿、 ニコラス・ホークスムーア、ジョン・ソーン卿、エドウィン・ラッチェンス卿を拾い出してきて、 彼らの形態の用法を点検しようとしている。 ヴェンチューリが、この4人を英国の建築家の中から 選んできたのはさすがと言わざるを得ないが、もう一人の天才マッキントッシュを 拾い出さなかったのは片手落ちである。 マッキントッシュの独特な線、平面の扱いの、 普遍化しえない特殊性に注目するのではなく、彼の椅子や家具の官能的でさえある美しさ のみを評価するのではなく、建築家としてのマッキントッシュの形態の用法に、 も少し目を向けてもよいような気がする。 | ヴェンチューリが拾い出した建築家たちの形態の用法は非常に知的である。 言い換えれば非常に操作的である。この点においてマッキントッシュは確かに素朴である。 与えられた個々の建物に対して非常に泥臭く、個別にぶつかっている。 ソーンやホークスムーアに見られるスマ―トさがない。普遍化しうる形態の操作性がない。 ソーン卿が行った光と影の操作、歴史に対する知的なアプローチ、そして歴史的連続性のある形態の創出、 あるいはホークスムーアが行った立面のプロポーション、大きさの感覚についての操作、 歴史的な形態ヴォキャブラリーへの参照といった、見る者に知的満足感を与えるとも 言えるような建築とは対照的に、マッキントッシュの建築はあまりにも個人的であり、職人的であり、 個々の対象にのめり込みすぎている。 これがソフィスティケートされた知的な現代人ヴェンチューリの 選択の網に入ってこなかった理由ではなかろうか。 操作的でなく、物自体から出発して、ディテールを集積して行く、マッキントッシュの建築のつくり方は、 一般化はできないけれど、コンセプチュアルな建築が行き詰まってしまった現代のわれわれに、 ひとつの別な方向を示唆してくれている。 建築家の役割は今でも、そしてこれからも、 物自体に関わり、執着していくというこの素朴な職人的な作業に結局のところ、集約される。 |
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マッキントッシュー時代精神の手法化ーその2 グラスゴー美術学校コンペ 建築家としてのマッキントッシュの主要な活動期間は、1898年から始まる10年間あまりの期間に要約できる。 つまり20代後半から30代後半までのことであった。 そしてこの10年余はグラスゴー美術学校のコンペから始まって、豊穣な設計変更が行われた、 やはり美術学校の第2期工事までの期間と一致する。 したがってグラスゴー美術学校の生成の過程を追っていくと、彼の建築活動の主要な部分を追える。 たとえばこの建物のエレヴェーションの4面はそれぞれ独自の顔を持っていて、 10年という歳月の経過、その間の彼の変貌を読み取ることができる。 1896年、12の建築事務所が参加した設計競技が行われた。 マッキントッシュはハニーマン・アンド・ケピー事務所として参加している。 相当量の仕事を持った確立した事務所であったハニーマン・アンド・ケピー事務所の中で、 この仕事は財政的にもマイナーで、その割に要求が多く、大した仕事ではなかった。 若く、まだアシスタントに過ぎなかった彼に任せられることになったのはそうした事情があったからである。 幸運だったことは、コンペの審査の決定権が、彼の師で、また友人でもあり、 賞賛者であった校長のフランシス・ニューベリーの手に握られていたことである。 イングリッシュであったニューベリーは、1888年に31歳という若さで、ロンドンから新しいさまざまな情報を持って、 そしてまたグラスゴーの活発な美術運動にも、強い関心を抱いて赴任してきた人である。 彼は早くからマッキントッシュに注目していた。マクドナルド姉妹と、 マッキントッシュ、マクネアーの4人を結びつけたのも彼である。 | もちろんこのコンペでも、彼はマッキントッシュの案と知って選んだに違いない。 ガウディにとってのグエルと同じように、マッキントッシュにとってニューベリーと、 ティールームの仕事を多く依頼したキャサリん・クランストン、この二人のパトロンとしての力は大きい。 ニューベリーの存在を除外してグラスゴー美術学校の建築を語ることはできない。 当選案のプランの構成は、非常に単純な片廊下型で、大きな窓のある北面のエレヴェーションその他、 ニューベリーの作成した要綱、そして敷地条件に忠実な案である。 非常に予算が限られていたことも、全体構成がシンプルになった要因である。 マッキントッシュは、個々の建築に与えられた条件に忠実にデザインを進めるタイプの建築家であり、 自分のコンセプチュアルな思考過程に、個々の建築を合わせていくタイプの建築家ではない。 コンペのコツも心得ていて、たとえばイタリアへの旅行資金を得たアレクサンダー・トムソン旅行奨学金の コンペでも、グリーク・リヴァイヴァルのヴォキャブラリーで、スコティッシュの雰囲気を包んだ巧妙なやり方で、 審査員の求めるものを的確に把握している。 教会のコンペでも、終着駅のコンペでも、ある時はルネッサンス風、あるときは古典主義風、 そしてゴシック風と、その時々の課題や審査員の好みに合わせて、スタイルを変えて、 それなりのものをつくり出し、数々の賞を得ているところは、彼の職人的器用さを示している。 |
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マッキントッシュー時代精神の手法化ーその3 Let function dictate 一見単純なEの字型プランのなかに読める面白い特徴は、入口のドアの位置が、 寸法的にはちょうど建物の真ん中にあるのに、平面的にも、立面的にも意識的にシンメトリーを避けている点である。 たとえば平面では、入口のドアの延長線上に主階段の昇り側があり、したがって階段室および上階の ミュージアムはその分東側にズレている。また北面の窓割りは内部の部屋割に合わせて決定されている。 ヒル・ハウスやウィンディ・ヒルの窓の配置を見ても、上下の窓の線を故意に揃えないようにしているかのような態度が伺える。 英国の建築家のよく使う言葉に,“Let function dictate”というのがある。 立面だけを考えて調整してはいけないという、潔癖な態度である。この、今でも英国人に支配的な姿勢は 、ラスキン、モリスからさらに遡って、ピュージンにその源がある。 ピュージンの強烈な中世への憧憬は、建築にモラリティを持ち込んだ。 いわく「建築の質は、それを生み出した社会の質にダイレクトに依存する」、いわく「真実の表現」、 「正直な構造」、建物の内部空間の配置はその外部に表現されるべきである」。 こうした考え方は、ウィリアム・バターフィールドやジョージ・エドムンド・ストリートといった ヴィクトリア朝の重要な建築家たちにも影響を与えた。 彼らの建築には明らかに一種の故意のぎこちなさ、不器用さが見て取れる。 ピュージンの思想は、ストリートの弟子であるウェッブやモリスへと受け継がれ、 アーツ・アンド・クラフツの運動へと連なって行くのである。 | こうした時代背景となった思想体系をマッキントッシュは、ナイーヴなまでに、生真面目に吸収している。 彼の面白いところは、アーツ・アンド・クラフツの影響だけでなく、思想的には反対の立場にあった、 ヴィクトリア審美運動からも形態的な影響を受けていることである。その時代のすべての思想体系、形態嗜好を、 無差別に貪欲に吸収して、自分のものにしている。 この態度もまた明らかに職人のものである。ヴォイジィの材料と工法に対する忠誠と、ビアズリーの線の捩れが、 そしてまたバーン・ジョーンズの道徳的リアリズムと、ヤン・トゥーロップの神秘的抽象が、 マッキントッシュの中では消化不良を起こさずに、整然と両立しているのである。 考えてみれば、モラリティという内的態度と、形態の規範とはもともとダイレクトに結びつくはずのないものであり、 マッキントッシュ、マクネアー、マクドナルド姉妹のいわゆる「ザ・フォー」を、 1986年の展覧会に招待したアーツ・アンド・クラフツのメンバーが、彼らの形態にびっくりして 二度と招待しなかったのは、不当といわざるを得ない。 このためにマッキントッシュの建築は(ロンドンの建築家たちは結局彼の建築を実際に見ることなく抹殺してしまう。) 長いこと、大陸の人々にしか支持されず、英国内ではほとんど無視されることになる。 |
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マッキントッシュー時代精神の手法化ーその4 美術学校2期工事へ グラスゴー美術学校の工事は、経済的な理由で2期に分かれている。 第1期工事は1897年から1899年、第2期工事は1906年から1909年に行われ、この間に法的制約、学校側からの新たな要請、 構造的制約などの外的、内的要因、そしてその間の時期のマッキントッシュ自身の経験の 積み重ねによる力量の成熟度の変遷も加わって、さまざまな設計変更が行われた。 建築は単なる創造活動ではなく、ひとつの社会的プロセスであるとする、ラスキン、モリスの思想が彼の信念であった。 実際、現実の建築を生じさせるものとして、現実の状況の切迫した事情を 大いに歓迎していた節がマッキントッシュには見受けられる。 またラスキン、モリスの理想とした中世のマスタービルダーの提示した枠組みの中で、 各々の職人がそれぞれの技術をもって寄与していく方式を、ヴィクトリア朝に翻案して、 建築家が現場で職人たちと対話していく過程で、ディテールを変更していく方式が、 理想的な形と考えられたアーツ・アンド・クラフツの影響で、マッキントッシュは建設の過程の中で デザインをどんどん変更していくことになった。 この設計変更は1905年に始められた。 たとえば、法的制約から来る変更については、東端の1期の会議室、現在のマッキントッシュ・ルームとして 保存されている部屋の西側外壁つまりEの字の内側の外壁に避難用の階段室が追加された。 | この階段室が取り付いた外壁の会議室部分には、すでに1期工事で、プランを見れば判るとおり、 一対の窓が突き出ていた。彼はその窓を取り除かずに、曇りガラスにして残し、 むしろ階段室の踏み面の方を削るという機知に富んだ処理を施した。 「建物にはそれを在らしめた諸要素だけでなく、その建物の歴史および変更などの状況の変化を それ自体に語らせるようにしなければならない」というまたしてもアーツ・アンド・クラフツの教義が、 マッキントッシュをしてこの目覚しい処理を行わしめた背景にある。 また学校側の新たな要請は、1期の屋根の上にもう1層スタジオ階をのせることであった。 これには1つ問題があった。つまり1期にできていた校長のスタジオが、この増築部の真ん中にあって、 左右の交通を遮っている。この困難な問題から彼はまた素晴らしい解決策をひねり出している。 それがあの電車の格好をした片持ちの回廊(hen-runと呼ばれている)である。 ジョン・ソーン卿は、その講義録の中で、「他の芸術、絵画や彫刻における(自然の)模倣とは反対に、 建築は純粋に発明(invention)の芸術であり、この発明は、人間の精神にとって最も苦しい、 最も困難な作業である。」と語っている。 |
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マッキントッシュー時代精神の手法化ーその5 恒常的な強靭さ このようにマッキントッシュは休みなく発明を続け、あらゆる普通であればマイナスの条件を、 いかにも楽しげに、自身のデザインの起爆剤にしている。 こうしたプロセスが施主に要求した資金と忍耐力は大変なもので、ニューベリーの支持がなければとても出来なかった。 細部にわたる彼のディテールへのあまりの執着のために、二度ほど職人達のストライキを引き起こした。 一度は廊下のトップライト部分のプラスター塗りの困難さのために、 もう一度は鍛鉄のT型梁の端部の結び目のような複雑な細工のためであった。 この細工は約1.8メートルごとにスタジオの室内に見えてくるのであるが、その各々が すべて異なった結び目の形をしているのである。 どちらの場合も彼は絶対に妥協していない。設計変更による新たな解決策の提示は、建築家にとって常に要求されるものだが、 多くの場合妥協の結果、変更前よりもコンセプトのあいまいなものに。なってしまうのが常である。 マッキントッシュは逆にそれを利用して、新たな発明の踏み台にしていった。 この恒常的な強靭さは驚嘆に値する。 美術学校のあらゆる細部には、彼の手の跡が徹底的に刻み込まれている。 細部を積み重ねることによって、空間が出来上がっている。 | 白井晟一の「充実した空間は、誠実なディテールの集積」 と言う言葉を想い起こさせる。それぞれの部屋が独立して密度の高い空間になっている。種種雑多な要素で埋め尽くされている。 ある単一の要素で全体を統一しようとはしていない。それにもかかわらず全体には単一のイメージが浮かび上がってくる。 どんな小さな空間にも、機能的あるいは構造的な理由付けが見られる。たとえば正面入口の上部の立面パターンのイメージも、 校長室内部で矛盾を起こしていない。あくまでも内部の機能から考えられている。 ここではアーツ・アンド・クラフツの教義にマッキントッシュは忠実に従っている。しかし無意識の内に 、R.ヴェンチューリのいう操作を行っているように思える。つまり「内部から外へと同じように、外部から内へとデザインすることは 、建築をつくるのに必要な緊張を生み出す。内部は外部と異なるのであるから、 壁ー変化のポイントーは建築的イヴェントとなる。機能と空間の内部と外部の、力の出会いにおいて建築は始まるのである。」 たまたまヴェンチューリは、内部空間の機能は外部にあらわされるべきだという、ピュージンにまで遡れる近代建築の教義を 書き直した形になったが、マッキントッシュの実際の作業の中では常に行われていたことであった。 |
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マッキントッシュー時代精神の手法化ーその6 図書室 図書室の内部空間の薄暗さは、北の都グラスゴーの気候条件から来ているが、 この空間の質にとって欠かせないものとなっている。 闇の抹消は近代の建築技術の目指すところであった。 その行き着くところは影のできない間接照明の均一の場であった。 しかしそうした空間の単調さ、耐え切れなさに私たちは気が付いた。 それは谷崎潤一郎が「陰翳礼讃」のなかで言及している、かつて日本建築の屋内の“目に見える闇” の感覚からもう一度出直すべきだと思える。この闇、暗さの空間意識を形成する上での重要な役割は、 ガウディのコロニア・グエル教会地下聖堂や、このマッキントッシュの図書室に見ることができる。 この薄暗さゆえに、図書室の天井から鎖で吊り下げられた鉄製の照明器具も、 回廊に差し込む光も、回廊を支える柱列も意味を持ってくる。 この部屋の外枠は1896年の図面に示されたまま、10.6m角で、高さは北側のスタジオの3分の2の約5.2mである。 しかし内部構成はまったく違っていて、上部の回廊による吹き抜けは1896年の図面では、楕円形であったのが長方形に変わっている。 また、この回廊は当初案では真下から支持されていたが、変更案では東西方向の柱列にかかる梁で支えられている。この柱列は部屋を 3.3m、3.6m、3.3mの間隔で3つ割にしており、その3.6mと回廊の幅2.4mとの間に差ができる。 断面図を見ると、図書室の真下には、2列の鉄骨の梁がかかっており、 柱列はこの上に乗った形になっている。 こうして柱が回廊の先端から浮いたことにより、天井まで伸びたこのオイル・ステインの 塗られた木の柱の空間構成上の役割は一段と増した。 ここでも再び彼は構造上の制約を逆手にとって、新たな発明のための踏み台にしている。 ヴェンチューリによると、ミケランジェロは「新しい形かまたは新しい意味を建物に与えずにモチーフだけを、 彼の作品に取り入れたことはめったにない。」 | この図書館に見られる手法には、R.マックロードが示すように、それぞれオリジンのあるディテールが多い。 たとえば、ギャラリーの梁の突き出た部分にある手摺子の、彩色された「ワゴン・チャンファー」と呼ばれる 、木材の面を抉り取った模様(駅馬車の建物に使われたのでこの名前がある。)は、 オックスフォードの図書館のギャラリーに見られるように、アーツ・アンド・クラフトの人々によって たびたび使われていた。 あるいはまた、柱、梁の木組についての19世紀にはやった日本からの影響、そして西面ファサードの 垂直方向に長いベイ・ウィンドウのモチーフは、ノーマン・ショウの設計したロンドンのニュージーランド・チェンバースにその先例がある。 こうして見てくると、マッキントッシュがいかに注意深く、また貪欲に同時代の建物を観察していたかが判る。 そしてたいていの場合、オリジナルとはまったくかけ離れた処理で、彼の空間に適切なものとして、新しい意味を与え、 欠かせない空間構成の要素に仕立て上げている。 彼ほど、その生きた時代に影響を受けて、まさしくその時代精神を体現した建築家は少ない。その時代精神、すなわち内的態度を吸収し、 設計過程で、流れ出る自身の感性の歯止めとしている、完璧な職人的建築家といえる。 不器用なまでに、生真面目にヴィクトリア朝の思想体系を実践している。 しかし内的態度と形態の規範を短絡させて考えていた同時代人たちには、彼の建築が読み取れなかった。 というよりも表面の形態のアール・ヌーヴォーとの、あるいはヴィクトリア審美運動との類似性だけを見て、 彼の“形態の用法”を見ようとしなかったのである。 家具デザイナーとしてではなく、画家としてでもなく、ましてやインテリア・デコレーターとしてでもない、建築家としてのマッキントッシュ “形態の用法”を、今こそ吟味すべきときではないかと思う。 |
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ジョン・ソーン卿博物館ーたゆまぬ逸脱ーその1 -カラムNo98(8510)掲載論文を その1〜その6 に分割- 昼食のサンドイッチを公園のベンチで友人と食べ、近くに面白い建築があるから と、連れて行かれたのが最初の出会いであった。 その公園は友人の仕事場に近い、リンカーンズ・イン・フィールズであり、その建築は、 リンカーンズ・イン・フィールズNo.13、ジョン・ソーン卿博物館であった。 もう10年程まえのことである(執筆時1985年)。 とにかく奇妙な建築であった。 長い昼休みを過ごして、その頃働いていた、ウェストミンスター寺院の近くのオフィスへ戻り、 今見てきた建築について、上司だったチーフのアイルランド人建築家に興奮して説明したのを憶えている。 彼は既によく知っていた、そこが素晴らしい空間で、僕が興奮している訳も。 ロンドンの中心部にあり、行きやすいということもあって、その後何度も足を運んだが、 何度行っても新しい発見があり、最初の興奮が冷めることはなく、行く度にその魅了された。 現存しているソーンの他の建築も見ようと、ロンドン滞在中にイングランド銀行、 ピッツハンガー・メイナー(その頃はイーリング公立図書館)、ダリッチ・アート・ギャラリー を観に行ったのだが、ジョン・ソーン卿博物館のような感動は何処からも受けなかった。 その理由は、最初の二つは内部を見られなかったことと、そして3つとも かなり激しく改変されていること、にある。 ジョン・ソーン卿博物館はいかにも特異な建物である。 | 博物館自体が、かつては建築家自身の住まいであり、また 建築家が開発した建築言語の集大成からなる作品でもあり、しかもそこに集められている膨大な数の展示物は、 彼が長年にわたって、建築家の目で選び、集めた古典建築の遺跡のかけら、建築に関係のある彫刻、 絵画(ピラネージもある)である。 さらにソーン自身の作品の模型、ドローイング(その多くが、ピラネージのイギリス版ともいえる、 幻想の建築家J.M.ガンディによって描かれたもの)、つまりソーンという建築家のすべてがここに 集められている。 そして、ソーンの死から現代にいたる1世紀以上の間、博物館として一般に公開されているという事実 それだけでも、圧倒されてしまう。 ソーンは1806年(53歳)、ジョージ・ダンス2世の後を受けて、ロイヤル・アカデミーの教授になった。 その時の講義録が残されているが、その中でソーンは、「建築は、絵画や彫刻のように模倣の芸術ではなく、純粋に発明の芸術である。 そしてこの発明というのは、人間の精神にとってもっとも困難で骨の折れる作業である。(講義7)」と言っている。 ソーンは同時代のジョージ・ダンス2世や、前の時代の建築家たち、ロバート・アダム、ジョン・ヴァンブラ等の影響を受けながら、 次第に独自のヴォキャブラリーを発明し、それを繰り返し自身の建築の中で使い、発展させる。 そのエッセンスといえるものが、この博物館の空間には凝縮され、密度の高いソーン建築の小宇宙を形成している。 |
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ジョン・ソーン卿博物館ーたゆまぬ逸脱ーその2 1 建築家ソーンの形成過程-Sir John Soane(1753-1837) 高名な建築史家であり、ジョン・ソ−ン博物館の館長でもあるジョン・サマ―ソン卿によれば、ソーンの経歴は、 次のように大きく5つの時代に分けられる。 「第1期」修練の時代1776〜80(23〜27歳) 主にフランスのネオ・クラシシズムからの影響を受ける。 ピラネージのドローイングから直接的イメージが来ている、 凱旋橋(トライアンファル・ブリッジ)のデザインで、ロイヤル・アカデミーのゴールド・メダルを獲得し、 1778年から2年余りイタリアに滞在する。このイタリア滞在は、古建築を学ぶ機会だけでなく、ソーンにとってその後 重要なパトロンになる人々との出会いの機会になる。 また死の直前のピラネ−ジ(1720〜78)に面会している。 「第2期」初期実務時代1780〜91(27〜38歳) 1781年に、父の事務所を継いだばかりのジョージ・ダンス2世からの依頼で、ニューゲイト監獄の再建の仕事を手伝う。 (ソーンが15歳の時初めて修行のために入った事務所がジョージ・ダンス事務所であった。) ソーンはダンス2世から多くの影響を受けた。ふたりは年齢も近く、 (晩年には仲違いをしているが)仲のよい友人でもあった。 イタリアで知遇を得たトーマス・ピットからのしごとを手始めに、ソーン自身も事務所をスタートさせ、 多くの小規模なカントリーハウスの設計を行っている。 そして15人の競争者を抑えてイングランド銀行の建築家のポストを獲得する。競争者の中にはジェイムス・ワイヤット、 ヘンリー・ホランド(ソーンは17歳のとき、実務面の不足を感じて、ホランド事務所に移っている)、S.P.コッカレルと いったそうそうたる建築家が並び、この勝利が異例であったことが分かる。イタリアで知遇を得た トーマス・ピットに紹介された、時の首相ウィリアム・ピットの力によるところ大であったようだ。 「第3期」中期実務時代1791〜1806(38〜53歳) 最も実りの多い時期で、ソーン独特のヴォキャブラリーのほとんどはこの時期に確立されている。 師であり友でもあったダンスと、最も交流を深めたのもこの時期である。 そしてソーンにとって最大の幸運は、1790年に裕福な建設業者であった、妻の伯父ジョージ・ワイヤットが亡くなり、 莫大な遺産を継いだことである。 経済的な心配がなくなり、下積み仕事をしなくて済み、またイングランド銀行を始めとしたよい仕事にも恵まれ、 建築家にとって、これ以上望めないような、理想的な立場におかれた。 1792年にソーンは初めて自分の家を持とうと、リンカーンズ・イン・フィールズNo.12を購入する。 最初は改築を考えたが、結局は建て直された。そして博物館の収蔵品になっている品々の収集をスタートさせる。 | 「第4期」ピクチャレスクの時代1806〜21(53〜68歳) さまざまな辛い事件が重なった時期である。 1806年にロイヤル・アカデミーの教授になるが、 おそらくそれに関連して、ダンスとの仲違いが始まる。そして息子たちとの不和。 1815年息子のジョージが雑誌上で父親の建築を批判する記事を発表した。ソーン夫人はそれまでも病気がちであったが、 その記事が引き金になったかのように、数週間後に病没する。 この時期、新しいヴォキャブラリーの発明はなく、中期に開発したアイディアを、よりピクチャレスクに開花させている。 実用的な目的で、銀行に使われたトップライトが、よりピクチャレスクな形で多用されるようになる。 ソーンの最高傑作のひとつである、ダリッチ・アート・ギャラリー、 そしてリンカーンズ・イン・フィールズNo.13(現在の博物館部分)は、この時期の仕事である。 「第5期」晩年 1821〜33(68〜80歳) 孤独な時期。 最高裁判所(1820〜)、枢密院(1824〜27)、フリーメイソンズ・ホール(1826)、 などの大規模な公共建築を設計しており、しかもこれらは非常な批判を受けることになる。 この時期には再び、 (ソーン的な新しいディテールを加味してではあるが)ネオ・クラシシズム的傾向に戻っている。 この時期はまた、アンティーク収集の最終段階であり、ジョン・ソーン博物館が今の形に結実する。 ソーンの基本的なヴォキャブラリーが開拓されたのは第3期、特に38歳から45歳頃の数年間のことで、 その後のピクチャレスクの時期には、それをただ発展させただけだといわれ、ソーンは 「自身のスタイルの囚人であった。」とサマーソンは言う。 そしてこの時期ソーンは、 師であり友であったジョージ・ダンス2世と緊密な関係にあり、ダンスとの討議、助言がこれらのヴォキャブラリーを 作り上げたといわれる。ソーンのスタイルは、一人の人間の仕事ではなく、二人のものであると。 もちろんソーンの独特の性向がそれを完成させたのではあるが、ダンスとの関係がなければ、そのスタイルは生まれなかった。 ソーン卿博物館にあるソーンのデザインした引き出しには、ダンスのドローイング・コレクションが納められ、 まるで聖域のように扱われていたという。 特に、後で触れるソーンの重要なヴォキャブラリーである、ドーム・アンド・ランタンのモチーフも、ジョージ・ダンス2世の 影響下で展開され、完成されたものである。 | |
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ジョン・ソーン卿博物館ーたゆまぬ逸脱ーその3 2 朝食室-the poetry of architecture 「この部屋から見えるモニュメント・コートやミュージアム(ドーム)の景色、さまざまな輪郭を映す、天井にはめ込まれた鏡や姿見、 この限られたスペースに施された、こうしたデザインや装飾の総体は、想像力をかきたて、 建築の詩the poetry of architectureを齎す。」ソーンは自邸の朝食室についてこう語っている。 ここには、まずソーンの代表的なヴォキャブラリーであるドーム・アンド・ランタンの形態モチーフが使われている。 このモチーフが最初に完成度の高いものとして実現したのは、イングランド銀行のストック・オフィスである。 原型になったのはダンスのギルドホールの市議会議場(1777〜78)で、四角の部屋にペンデンティヴによって、 ドームが載り頂部が開口(オキュラス)になっている。 もう一つのヒントは、イングランド銀行のソーンの前の建築家、 ロバート・テイラー卿による、銀行内のレデュースト・アニュイティーズ・オフィスだが、ここでは天井はフラットになっている。 ソーンのストック・オフィスでは、柱からペンデンティヴが伸び、その上に円周上のクリアストーリーがあって、 浅いドームが載っている。 ダンスやテイラーの空間と違うところは、ペンデンティヴを支持する4本の柱が、壁から浮いていて、スペース・イン・スペース の構成になっているところである。 天井によって限定されるスペースを、部屋の四周の壁から離す手法は、ソーンの建物に多く見られる特徴で、 この朝食室でも、それによって出来るスリットに、トップライトからの光を落とし、壁にバウンドさせている。 | クリプト(地下納骨堂)部分およびミュージアム(ドーム)も、壁から浮いた4本の柱で支持された、 スペース・イン・スペースを形成している。 イングランド銀行のストックオフィスに戻ると、おそらくスケールダウンする手法として、ペンデンティヴには縞状の刻みが、 柱にも垂直の刻みが入っている。 またペンデンティチヴの中心にはパテラ(円形の浮き彫り装飾)が、 そしてグリーク・フレットと呼ばれる、(ラーメンの器の縁にある模様に似た)文様が見られる。 この文様はソーンの建物に繰り返し現れる。 これらは厳密な古典言語の文法からは、少しずつ逸脱しながら、ソーンの個人的テイストに従って現れてくる。 このとき完成されたモチーフがサマーソン卿が、ドーム・アンド・ランタンと呼ぶモチーフである。 サマーソン卿の説明によれば、このモチーフにはポジとネガがあって、両者ともに、 ソーンの生涯にわたる作品に繰り返し使われるのである。 ポジのほうで言えば、今までに見たように博物館の朝食室、 イングランド銀行のストックオフィスの他に、イングランド銀行のコンソル公債事務所、オールド・デヴィデント・オフィス、 ピッツハンガー・メイナーのパーラー、コート・オブ・エクスチェッカー、フリーメイソンズ・ホールなど、たくさんの例がある。 ネガの例は、ダリッチ・ギャラリーの霊廟の屋根の頂部、夫人の逝去時にデザインされたソーンの墓、 ピッツハンガー・メイナーのゲートの頂部などである。これらネガの頂部にはさらにその上に、 骨壷状のモチーフが必ず載っている。 | |
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ジョン・ソーン卿博物館ーたゆまぬ逸脱ーその4 3 ダリッチ・アート・ギャラリー-lumiere mysterieuse 1776年27歳のとき、ロイヤル・アカデミーのゴールド・メダルを狙って、凱旋橋のデザインを進めていた頃に、 仲間の誕生祝にテームズ川の舟でパーティーを催すという、誘いがあったが、ソーンは勤務時間外も日曜日も、 その準備で忙しく、その誘いを断った。不幸なことに、そのパーティで仲間の一人が溺死してしまう。 このあとソーンはゴールド・メダルを見事獲得するのだが、この事件にひどく心動かされ、 その友人ジェイムズ・キングのために 墓所のデザインを捧げている。 その後、ソーンは死ぬまで、死に関するデザインを数多く残している。 ピッツハンガー・メイナーのライブラリーは、アンティークの骨壷が、部屋の四周の壁のニッチに、所狭しと納められ、 パーラーには、暖炉の向かいにアンティークの骨壷が飾られている。 リンカーンズ・イン・フィールズの自邸の地階にも、地下納骨堂(クリプト)や地下墓地(カタコウム)といった部屋がある。 ダリッチ・ギャラリーのコレクションはパリから英国に渡ってきたノエル・デザンファンという アート・コレクターの残したコレクションと 遺産によって成り立っている。 デザンファンの死後、彼に庇護されていたスイス出身の画家フランシス・ブルジョア卿が、デザンファンの遺言に従い、 ロンドンのシャーロット・ストリートに、ソーンに依頼して霊廟を建てた。 ソーンとはロイヤル・アカデミーでお互いに見知っていたのである。 この霊廟がやはりドーム・アンド・ランタンのモチーフで、後のダリッチ・ギャラリーの霊廟の原型になっている。 ダリッチ・ギャラリーを訪れた時に、実際にガラス越しに見た霊廟内部は、第2次大戦で空襲にあって、修復はされていたが、 大分プアーな印象でがっかりした。 これに対してガンディーの描いたシャーロット・ストリートの霊廟ドローイングは素晴らしく、 光の入り方の表現で空間に抑揚を与えている。 |
プランで見ると、どうも先ほどのランタンは、6本の円柱と2本の付柱に支持されたドームにはなく、
そこから外れた部分に石棺がおかれ、上からの光が落ちている。
色ガラスを使った黄色の光で、こちらのドーム側はむしろ薄暗く、
アーチを透して光がこちらに流れてくるような構成になっていて、博物館の朝食室の壁際の光の落とし方に似ている。 光源を直接見せず、壁に反射させながら、光を導入し、空間に陰影を与えるドラマチックな光の扱いは、 ソーンのその後の建物にもたびたび現れる。ガンディーの描くドローイングには、この効果が強調されて表現される。 これはlumiere mysterieuseという言葉で表現されている。 ダリッチ・アート・ギャラリーはソーンの建物の中で、最もオリジナリティの度合いが高い完結した建築で、 プランを見ると、ヴェンチューリが喜びそうな、壁の層構成が見られ、霊廟はアーティキュレートされて、 左右の翼が伸び、抑揚の効いた構成をしている。 それは立面にも反映されて、壁面の凹凸、壁の高さの違いで、アーティキュレートされた表情豊かな構成になっている。 特にスカイラインは、さまざまな突起で、豊かな表情を見せて、 ジョン・ヴァンブラ(1664−1726)とニコラス・ホークスムーア(1661−1736)が設計したブレニム宮(1724)を髣髴とさせる。 ソーンはジョン・ヴァンブラ卿を尊敬しており、 講義録の中で、建築の世界のシェークスピアであると賞賛している。 ちょうどダリッチ・ギャラリーを設計している頃の講義でも、 「発明に関しては、この国で彼(ヴァンブラ)に並ぶ人はいない。大胆で自由な空想力、 彼の作品のすべては限りない多様性に富み、それぞれが違った性格を持っている。」と言っている。 サマーソン卿はヴァンブラのシートン・デラヴァルからの影響を指摘し、さまざまな高さの、 さまざまな突起の組み合わせが、このダリッチ・ギャラリーで、具現化されており、 こうした質を持った建築はソーンの時代には、ソーンの建築以外に例がないと言う。 | |
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ジョン・ソーン卿博物館ーたゆまぬ逸脱ーその5 3.ドーム−ソーン卿と死の装具 ソーンは、1792年に最初にNo.12を購入し、 これも彼の建物に繰り返し現れるヒトデの形をしたモチーフの天井の朝食室を作った。 その後1800年にはイーリングのピッツハンガー・メイナーを別荘として購入し、これを建て直した。 これには二人の息子への芸術教育の意味もあったという。 したがってリンカーンズ・イン・フィールズでの動きは、大分間が空いて、1808年にある。 この年ソーンはNo.12の後ろの部分をNo.13に伸ばし、ここにドーム(ミュージアム)と呼ばれる部屋を作った。 先に触れたようにノエル・デザンファンの死後、その遺志を引き受けて、ブルジョアは、 シャーロット・ストリートの厩の跡にソーンに依頼し、墓所をつくった。 自宅に埋葬するという、デザンファンのこの アイディアに影響を受けて、博物館のドームと呼ばれる部分の地下には、最初、“霊廟”という室名が図面には書かれていたという。 後にこの室名は消えたが、ドームへのこの性格付けは最後まで残った。 ソーンの建物のために、豊穣なイメージのドローイングを数多く残したJ・Mガンディは、ソーンとは対照的に 悲惨な人生を送った。(このことはジョン・サマーソン卿の名著「天井の館」の゛J・Mガンディの幻想の章に詳しい。) その多難な人生を反映しているのかどうかは不明だが、彼は洞窟や地下墳墓(カタコンブ)に非常な興味を抱いていた。 彼はジェイムズ・ワイヤットの弟子であった頃の1790年に、「1つの墳墓」というドローイングを ロイヤル・アカデミーに提出しており、1800年には「墳墓の室」、1802年には「地中の寺院」、 1804年には「墳墓の燈台」、そして1838年に「鋳鉄製の古代墓地」をそれぞれ出品している。 その頂点というべきドローイングは、現在RIBAに保存されている「マーリンの墳墓」(1815年)である。 ソーンは受け取らなかったが、この作品はソーンに贈られたたものだった。 「大理石は清らかに輝き、そこには太陽は射し込まず、墳墓そのものが洞窟全体を照らす。」 | このイメージはソーンに多大な影響を与えた。 1817年エジプト総領事ヘンリー・ソルトの保護の下に、ベルゾーニという人がセティ一世の 雪花石膏(アラバスター)製の石棺を発見した。 ソルトは1821年にイギリスに運び、大英博物館に設置したが、 政府がお金を支払おうとしなかったので、2年後にはソーンの所有するところとなり、ソーンはこれを、 自宅のドームの下、クリプトに設置した。 ガンディのイメージに触発されたソーンは、この光を透すアラバスターの石棺の中にランプを置いて、 「マーリンの墳墓」のイメージを現出させた。 サマーソン卿は「ジョン・ソーンと死の装具」(AR1978年3月号)のなかで、こうしたソーンの 建築と死の装具との結びつき、あるいは執着を、解き明かしている。 ソーンには他にも「ピット記念碑」という死に関連した重要な作品がある。ウイリアム・ピットの記念碑で、 2階部分の床に円形の開口があり、その上のトップライトから最下階にまで、光が降り注ぐ、 「トリビューン」と呼ばれる縦長の空間構成になっている。 この構成は、ティリンガムのカントリーハウス(1793−1800)のエントランスホールにも使われる (ここでは開口は楕円形である)。 ジョン・ソーン卿博物館のドームは、床の開口が円形や楕円形ではなく、大きく一杯に開かれているので、 正確には他のものとは少し異なるが、縦長の空間構成は一連の「トリビューン」のひとつの発展形と見られる。 このドームの空間のガンディによるドローイングは、ネオクラシシズムのキーワード 「サブライム(壮大な、荘厳な)」という言葉を想い出させる、ソーンの意図した光と影、 壮大なスケール感を拡大してみせた、素晴らしいドローイングである。 トップライトからの光と、 アンティークのコーニスの断片の、背後に隠された光源からの間接光によって、 ドラマティックな表情を与えられている。 もう一枚別の角度からのドローイングでは、 光は、地下のクリプトにある光源から、壁にかけられた多数のアンティークの破片に 当たって、複雑な陰影を作りだしている。こうした光と影の遊びこそ、ソーンの重要な主題であった。 |
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ジョン・ソーン卿博物館ーたゆまぬ逸脱ーその6 4.ソーンから学ぶこと−私的プロポーション 自邸=博物館の朝食室とドームを中心に、ドーム・アンド・ランタンとトリビューンという、 ソーンが第3期に創作し、その後繰り返し使った、2つの空間構成のモチーフについて見てきた。 ソーンの建築はほとんど全て、この2つのモチ−フのヴァリエーションで出来ていると、 言い切れるほど、彼はこれらに固執し続けた。 この2つのモチーフに、次にあげるいくつかのソーン特有のテイストが加わって、ソーンの建築は出来ている。 1.スペース・イン・スペース 朝食室、ドーム、ストック・オフィスで見たように、柱でかこまれ、ドームのかかったスペ−スが、 室の中で独立して、浮いたスペースになっている。あるいは博物館のファサードのように、 主要な構造部の表面にもう一枚の壁を浮かせて、透いた層構成をつくる。 これはダリッチ・アート・ギャラリーの列柱にもみられる。 ルイス・カーンや、ヴェンチューリやムーアにも同じような嗜好が見られるのはおそらく ソーンの影響があると思われる。 2.隠された光源からの光 これによって、先に触れたようにソーンの作る空間に劇的な効果をもたらし、 lumiere mysteriseuseと呼ばれる。 隠された光源から、空間に光を、屈折させながら導入するやり方は、やはりルイス・カーンも意識的に使っている。 またトップライト、そして色ガラス。鏡や凸面鏡を使った、光と陰影の遊び。 3.死の装具へのこだわり この時代に大量に発見され、持ち帰られたアンティークの品々からの影響と、 ネオ・クラシシズムの“サブライム”“ピクチャレスク”の概念と結びついたテイストで、 ソーンの生涯を通底したテーマになっている。 | 4.古典文法からの逸脱、平面性 おそらくは他の建築家からの批判の対称になった要素で、これもジョージ・ダンスからの影響が大きい。 平面性はモダニズムに通じる。平面性には切り込まれた線的な装飾による、独自のスケールダウンの手法も付加される。 5.醜いプロポーション 意識的にプロポーションを外すことは、ソーンの建築を特徴付ける大きな特性である。 講義録の中でソーンは、プロポーションのセオリーというものは、適切でも、有用でもないと、言い切っている。 そして古典建築の文法のプロポーションから逸脱し、ソーン独自のプロポーションを採用する。 これまたダンスからの影響下で、ソーンが確信していったものである。 5の古典的プロポーションから逸脱、独自のプロポーションへの固執は、 同時代の建築の古典文法へのこだわりが背景にあったからこそ、それからの逸脱が意味を持ったわけだが、 それだけではなく、見慣れた形態を外し、整ったもの、きれいなプロポーション、共通する美意識、 一般的な美の感覚を外して、意識的に逸脱した、醜いといえるような方向を志向し、 個人的なテイストに置き換えるソーンの姿勢は、今でも、とても魅力的で示唆的だと思える。 共通項で考えられるようなプロポーションで出来ていないところが、 あるいはすぐ読めてしまうような単一のストーリーで出来ていないところが、 何度訪れても新しい発見があり、人を飽きさせない、ソーン博物館の魅力になっているのだと思う。 そこではさまざまな読み方を可能にするような、多様な操作が行われ、 ソーンという建築家の匂いが感じられる。 ジョン・ソーン卿博物館を訪れると、常に建築を愛し、今ある建築の枠から逸脱し、 常に自分のテイストに忠実であったソーン、その建築観を、感じることが出来る。(カラムNo98 8510) |
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ロンドンの街並とジョン・ソーン卿博物館
-Sir John Soane(1753-1837) 僕にとって心に残るまちなみといえば、25歳から29歳までの3年半を 暮らしたロンドンのまちなみである。 煤の染み付いた、赤茶や,黄色、灰色、さまざまな焼き色の、構造体でも ある煉瓦の外壁、あるいは煉瓦を塗り込めた白い壁、天然スレート葺きの屋根、 ドーマー・ウィンドウ(屋根窓)、その家の暖炉の数だけ立ち 上がっている チムニーポット(土管の煙突)、サッシ・ウィンドウと呼ばれる縦長の木製 上げ下げ窓、これら“限定された構成要素”の“繰り返し”がつくる独特の 街並みの風景に、その後何回訪れても、訪れるたびに、強い愛着を覚えてきた。 これらテラスハウスの多くは、ロンドン大火(1666年)以後の18,19世紀の ジョージアン、ヴィクトリアンの時代に、投機の対象としてつくられたものだ。 まずは資産家が99年(初期はもっと短かった)の借地期限で地主から土地を借り、 小区画に分割し、自分で建設したり,職人達に貸して家を建てさせる。 その上で地代をつけて譲渡する。資産家は、建設によって地代が上がることで 利益を得、職人は家を建てて売ることで利益を得る。こうして大火の後、建設 ブームが始まり19世紀まで続いた。 テラスハウスの建設はまず土地の造成からはじまる。地階の部分の土を道路に 盛り土することで、道路とバックヤードに半層分のレベル差を人工的につくりだす。 | この段々になった土地のことをテラスと呼ぶことから、テラスハウス、あるいは テラスと言う呼称が生まれたという事のようだ。 投機の対象としてみた場合、当然ひとつの道路に面して出来るだけ多くの住戸を 建設することが経済面から要求される。したがって間口の狭く奥行きの長い住戸 が定着したのである。 24ft(約7.32m)が大体間口の標準的数字である。この間口の狭さから、大体が、 前後に二部屋、片側に通路と階段というシンプルな平面構成で上下に重なっている。 したがって機能による各部屋の強い特徴づけが構造にまで及ばず、各階の各部屋 はどんな機能にも対応できる。 このことが、テラスハウスが普遍化し、長生き したひとつの理由である。元々意図されたわけではないが、いわゆる“スケルトン・ アンド・インフィル”になっている。都心部のテラスでは、多くがオフィスに転用 され、数戸をぶち抜いて学校やホテルになっているところもある。 中でも一番印象的なのが、今もリンカーンズ・イン・フィールズという地名の一角 にある「ジョン・ソーン卿博物館」である。30代後半から晩年まで40年かけて、 3軒のテラスハウスを徐々に買い足し、少しずつ改造していった元ソーンの自邸である。 ジョン・ソーン(1753〜1837)の、建築家としての思いが、シンプルなスケルトンの 中に凝縮され、多様なインフィルで満たされ、素晴らしい小宇宙を形成している。(下の写真は朝食室) (家とまちなみ54 0609) | |
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物自体への執着 -Charles Rennie Mackintosh(1868-1928) イギリスに渡って、はじめて訪れた冬のグラスゴーの印象は、決して好もしいものではなかった。 これが、あのマッキントッシュ描くパースの空かと、納得させるグルーミーな冬空の下で、 グラスゴー・スクール・オブ・アートはしかし、街の何ともいえない暗さと裏腹に、とてもさわやかな 印象をもたらしてくれた。 そのさわやかさはおそらく、この建築家の、物自体に対する執着の、そのあまりの強烈さからくるものではないかという気がした。 前面に出た空間のコンセプトのいやらしさ、あるいは、いじくりまわされた空間の不明瞭さ、複雑さは、 この建物とは無縁のものである。 外観は、グラスゴー固有のアノニマスな建築に近い。そして全体の構成はシンプルで明解である。 しかもなお、その空間が、豊かな、美しい、そしてまた人に 安らぎを与える静謐なものになっているのは、物自体への、ディテールへの建築家の、のめりこみ方の 凄さである。白井晟一の「充実した空間は、誠実なディテールの集積」という言葉を想い出した。 このさわやかさのもうひとつの理由は、彼が決して建築というものの一般解を求めたのではなく、 グラスゴー・スクール・オブ・アートという課題に対する特殊解を常に追求していたからだと思う。 経済的な、そして敷地条件の、また、学校側の多彩な要求その他の、現実の切迫した事情をデザイン過程のプラスの面に 持っていく姿勢が、常に建築家にはあった。 | マッキントッシュは明らかに、この現実の切迫した事情を、現実の建築を発生させるものとして歓迎していたようである。 この考え方は、建築することが単なる創造行為ではなく、社会的なプロセスと見る、ラスキン、モリスの 思想からきている。 実際、条件が困難になればなるほど、マッキントッシュのデザインは冴えてくるようである。 1896年のコンペ入賞から、1909年の第2期工事(この建物の工事が、経済的理由から2期に分かれたのは 幸いなことであった)の完成までの10年間余りは、マッキントッシュが社会と密接に関わった 全期間であり、その間に、彼の代表作はほとんど全てできあがっている。ひとりの作家の実質上の活動期間としては 短いが、その密度の高さにおいては、他にあまり例を見ないと思う。ほとんど全ての、マッキントッシュの建築言語は、 この建物の中に見ることができる。しかも最も洗練されたかたちで。 3年数ヶ月のイギリス滞在中、だいたい1年の間隔を置いて三度この学校を訪れたが、そのたびごとに前には 気のつかなかった、細部のデザインの素晴らしさを新たに発見した。 そしてまた、写真を見て感じるこの建物の 細部の繊細さが、実際の部材の細さからくるものではないことを再発見する。マッキントッシュの使う部材はむしろ ガッシリとして力強く、写真に頼って1年間で薄れたイメージを裏切って、部材の絶対的野太さを、改めて見直すことになった。 (SD 7603) | |
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クェリーニ・スタンパーリアの噴泉 -Carlo Scarpa(1908-1978) 手のひらの上で輝く、宝石のようなクェリーニ・スタンパーリアの中庭。 ヨーロッパの庭園の定石としての伝統的構成要素を備え、 そのうえで スカルパの解釈と、 そしておそらく日本庭園の影響が加わったミニチュアの西洋庭園。 そしてスカルパの建築に欠かせない“水”。 線状の水の流れの行き着く先に、白大理石の、底の浅い鉢が水を 受ける。 光を反射する細長い水面の輝き、きらきらした透明な水の流れ。 水と光、水と石、水と緑のぶつかり合い。 何という数寄。 (ぱろす38 9106) |
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